高麗人参の歴史|高麗人参はいつから?古代中国の最古の書に記述?いつ頃日本に渡り、誰が広めたのか?

高麗人参の歴史

高麗人参とは?

人参、朝鮮人参、朝鮮種人参は、うこぎ科の多年草の植物、和名は「御種人蔘(おたねにんじん)」、学名は Panax ginseng C.A.Meyer で薬用部分は根である。

高麗人参の最古の記述は?


神農本草経(しんのうほんぞうきょう):中国最古の薬物書。 その書物の中に

「人參、一名人銜、一名鬼蓋。味甘微寒。五臓を補し、精神を安んじ、魂魄を定め驚悸を止め邪気を除き、目を明らかにし、心を開き、智を益すを主る。久しく服すれば身を軽くし、年を述べる」と記されています。

二千年以上も世界中で珍重されてきた中国最古の薬物書にも出てくる人参のこと。


「神農(しんのう)」とは、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人で「神農大帝」と尊称されている人々に医療と農耕の術を教えた医薬と農業を司る神。

別名、五穀仙帝(ごこくせんてい) 薬王大帝(やくおうたいてい)。

神農は本草学の始祖であるという伝説的な存在。

または炎帝神農(えんていしんのう)」とも。

炎帝神農とは、初代炎帝とも。古代中国で、姓は姜。120歳まで生きた、もしくは陳に置いていた都を魯に移し、140年間在位したとも伝えられる伝説の王。

高麗人参はいつ頃日本に渡ってきたのでしょうか。

記録では739年(天平11年)酷暑の時期、対岸の渤海国から「文王致聖武天皇書」とともに「大虫皮、羆皮各7張、豹皮6張、人参30斤、蜜3斤」が聖武天皇に献上されたといわれています。

この「人参30斤」が高麗人参のことでしょうか。

室町幕府(足利将軍家時代)にも時の王朝「李氏朝鮮(りしちょうせん:1392年~1897年)」の「朝鮮通信使(正式名:朝鮮聘礼使)」と言われる日本へ派遣された外交使節団の交易品として高麗人参が贈られています。

長い歴史の中で高麗人参は御礼品・重要な交易品として重宝されていたのですね。


日本で初めて栽培に成功したのは?

1729年(享保14年/八代将軍徳川吉宗の時代)に初めて高麗人参の栽培に成功しました。

それまでの高麗人参の種子はなかなか発芽せず、成果を手にするその道のりは険しいものでした。

催芽処理を行って胚の成熟を促すことで発芽率が高まりますが、栽培が可能になると幕府は、高麗人参の栽培方法を公開し、高麗人参の栽培を幕府上げて奨励していきます。


江戸時代 - 松江藩 松平宗衍(まつだいらむねのぶ/6代藩主)の時代、産業振興策として、人参方で主に高麗人参を生産し、これを陸路では長崎や大阪へ運び、中国商人へ販売したその収入は大きかったそうです。

息子の7代藩主 松平治郷(はるさと)は、頓挫した高麗人蔘栽培を復活させ、試行錯誤を経て1807年年(文化3年)松江古志原で栽培に成功しました。


野州(旧国名。野州。現在の栃木県)『野州一国御用作朝鮮種人参の歴史』の熊田一先生著の中で、「まえがき」で「日光御神領を中心に野州一国に展開されてきたのは寛政期から」とあります。

この「日光神領(にっこうしんりょう)」は、江戸時代・初期の1617年(元和3年)に徳川家康を祀る東照宮が創建されることで、全国に名が広まった地域ですが、

その日光神領を中心とした下野国で、高麗人参作りの歴史が綴られています。

また、1790年(寛政二年)庚戌十二月の「勝手作触書」の中にも、「人参の国内生産が諸国即ち奥州・出羽・信州等、野州以外の諸国にも広まった」と記されています。

日光市史の中でも江戸時代の高麗人参栽培の記述の部分が数多く残されています。


田村藍水(たむら らんすい、1718年(享保3年)- 1776年5月10日(安永5年3月23日))江戸時代中期の医師・本草学者。

本姓は坂上、名は登、字は元台、通称は元雄、号は藍水。

第八代将軍・徳川吉宗の頃、輸入に頼っていた薬種の中で最も高価で入手困難だった万能薬として信じられていた高麗人参。

その自給は薬草政策の重要な案件であったようです。高麗人参を自国で栽培し、薬種に加工する研究開発を主導した田村元雄は元文2(1737)年、幕府から高麗人参の種子を20粒貰い受けました。

その当時20歳。そこから高麗人参の栽培を試みてから26年後。宝暦13(1763)年6月24 日には幕府から医師並人参御用として登用されます。

その年46歳。そこから幕府は1763年(宝暦13年)に「広東人参」の売買を禁止します。
同年の9月1日からは幕府が江戸に新設した人参製法所が稼働を開始し、薬種の朝鮮種人参(高麗人参)の製造が商業規模で開始されたのでした。

※広東人参:「広東」とは中国の広東省のことですが、産地は広東省ではなく北米です。

このことから別名「アメリカ人参」、「西洋人参」、「西洋参」などとも称されます。


田村元雄の弟子である平賀源内らは1757年(宝暦7年)~1762年(宝暦12年)の間、計5回にわたって江戸の湯島で薬品会を開催し、この会に出品された物類の品質を定める目的で著された書物の中で、 高麗人参の作り方に関する記事があるようです。
1816年(文化13年)に幕府は、海外へ諸藩からの高麗人参の輸出を認めます。これにより国内生産の特に松江藩・大根島の高麗人参「雲州人蔘」は一躍世界ブランドとなりました。

しかし、時勢に翻弄され、次々と栽培が減少し、今では日本では3か所しかその農業遺産は残されていません。

1813年(文化10年)に古志原(※古志原:島根県松江市)から寺町に移設された人蔘方役所ですが、その200年後の2013年(平成25年)には大根島の由志園(ゆうしえん)に人参方役所の長屋門として復元されています。


江戸時代 8代将軍徳川吉宗の頃、幕府が高麗人参(オタネニンジン)その栽培を許したのは会津(福島)、信州(長野)、雲州(島根)の3藩だけでした。

会津地方では、江戸時代から続く300年以上の歴史があり、現在ではその生産量もダントツです(約52トン)。

会津地方は、長野県、島根県とともに「おたね」にんじんの三大生産地のひとつです。

※「おたね」とは。学名はパナックスギンゼング。ギリシャ語のパン=すべて=アコス=医療が結びついてパナックス、ギンゼングはオタネニンジンの中国名。


神津孝太郎:1802年(文政3年)生まれ。江戸時代後期の農民で下野(しもつけ。栃木県)の高村銀右衛門らから高麗人参の種子をもらい、信濃国(しなののくに)の志賀村(今の長野県佐久市志賀)にもちかえりますが、栽培には失敗します。

しかし、のちに試行錯誤の末、1847年(弘化4年)、ついに栽培に成功しますが、同年、28歳で若くしてその生涯を終えています。

のち志賀村は薬用人参の主産地として知られるようになりました。

高麗人参の成育に適する山間環境と土質の好条件を開拓した神津孝太郎らの努力は、今の時代へと受け継がれています。





日本・世界の偉人も愛用した高麗人参

ジャン・ジャック・ルソー (1712年~1778年)
➡フランスの哲学者。弟子であるサン・ピエールから貴重なコーヒー豆をお土産で貰ったその返礼品として、高麗人参を受け取ったとサン・ピエールの回顧録には記されているそうです。



始皇帝 (紀元前259年~紀元前210年)
➡中国・秦の建設者。中国史上初の天下統一を果たした人物。



楊貴妃(719年~756年)
➡世界三大美女の一人。古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人。



漢の武帝(紀元前156年~紀元前87年)
➡中国、前漢第7代の皇帝。



徳川吉宗(1684年~1751年)
➡徳川八代将軍。国内での高麗人参栽培を広く奨励。



徳川家康(1543年~1616年)
➡江戸幕府・初代将軍。朝鮮との交流を再開。日本から朝鮮へは銀や銅が輸出され、朝鮮からは高麗人参や木綿が輸入されました。(約200年の間12回、朝鮮通信使は日本を訪問しています。)



黒田 官兵衛 (黒田孝高(如水)1546年~1604年)
➡稀代の天才軍師。隠居後、高麗人参の栽培の研究。



(続く)



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